自分のことをお話しするのは、正直あまり好きではありませんし、自分のことをあれこれお話しするのはどうかと思いましたが、私のことを理解していただくには、私の実体験をお話しした方が分かりやすいと思うんです。
ですので、マイヒストリーの一部を、お話しさせて下さい。
私は福岡県北九州市と言うところで生まれ育ちました。
幼い頃は、天真爛漫で全く人見知りしなかったと言われますが、実は、たまに人見知りをします。
とにかく、おてんばだったようです。
2歳でクラシックバレエをはじめ、3歳で母の化粧品に興味を示し、幼いながらも舞台に出るときには母がしてくれるメイクにもこだわりを持つ、とてもマセていた子供でした。
また幼い頃は、遠く微かに聞こえる車の音で、父の車だとわかり、いつも外に飛び出して全身で喜びを表現するような、いわゆる尻尾を振って歓迎する犬のようでした。
両親のことが大好きでした。
ただ中学生の時、あることがきっかけで父のことが大嫌いになりました。
それは父が若い女性を囲っていたのを知った事でした。
母から聞きました。
父の車のダッシュボードに沢山の写真や書類が入っていたと母から聞いて、母と一緒に見ました。
思春期の私には衝撃的な写真で、とても気持ち悪くなったのを覚えています。
それよりも耐えられなかったのは、母が写真を見ながら号泣している姿を見る事でした。
家の中の空気は最悪。
母からは父や姉に言わないよう強く口止めをされました。
ですが私は家の中の空気に耐えられなくなり、
「お父さんに私から話すけん」母に言うと、
「それだけは絶対にやめて」と、泣く母。
その理由は、
「お父さんは裕子のことが何より大切やけん、裕子にバレたっち知っただけで、血圧が高いけん、ショックで死んでしまう」
と、いうことでした。
私は父を完全に無視すること以外、何もできない自分がとても悔しかった。また単純に両親の笑顔がみたかった。
とにかく家の中がぐちゃぐちゃで、本当にいろいろなことがあったのですが、
「裕子のために離婚はできない」と、いう言葉が1番嫌いでした。
私は家に居たくなくて、当時お付き合いをしていた彼と過ごす時間が増えていき、深夜や朝帰りをするようになりました。
何も知らない父は、態度の悪い私を怒鳴ったり、夜に出かけようとするとビンタされ、
お洋服を掴まれても振り切って、破れかぶれの服のまま裸足で飛び出していました。
家の中は、さらに最悪な空気になり女子高に入学した私は、
1学期の後半ごろ遂に限界がきて、父と絶縁する決意をし、家出をしました。
学校も辞める決意をしていたので、所持金15万8千円で何とかなると強気でした。笑
その15万は8千円は、森花恵さんデザインの冬の制服コート代を猫糞しました。
父宛と母宛に手紙を書き、自分の部屋の机の上に置いて出ました。
母には、何年後になるか分からないけど必ず連絡するから捜さないで元気でいてください。ありがとう大好きです、と書き、
父には、すべて暴露し自分の素直な気持ちと、一生…会うつもりもないので絶縁です、と書きました。
結局、父は手紙を読む事はありませんでした。
手紙は母が発見して読み、父宛の分は処分したそうです。
家出をし、数日後に両親は捜索願だし、父は仕事休み、朝から晩まで母と私を探していたようです。
私はロイヤルホストでアルバイトをはじめたり、彼が海や色んな所に連れて行ってくれ、お世話になりました。
でもコッソリ私の両親に連絡をしてたみたいで、ある日ドライブに行くよ~と言われ、喜んで乗ったら自宅に帰されました。
両親は外に立っていて、ただ泣いて抱きしめられ…呆気なく私の家出は終了。
厳しい女子高だったので、家出等がバレて停学に…(笑)
ちなみに私はヘタレなので、周りはヤンキーが多かったけど、ヤンキーにはなれなかったタイプです。
周りが刺青を入れたり悪いことをしても真似できず、制服だけは誰よりもミニスカートでしたが(笑)
いまだにピアスすら開けられない小心者。
幼なじみの親友の女の子が刺青を入れた時は、泣きながら怒って、自分の価値観を押しつける余計なお世話人間でした。
彼は暴走族のトップで地元では有名で派手に見られていたけど、凄く硬派でいつも私を守ってくれました。
そして、今は更に凄く素敵な人になっていて社会に貢献しています。
呆気なく終了した家出から自宅に戻ると、父は女と別れていました。
母に離婚を薦めてたけど、結果的に離婚しませんでした。
父が女と別れたことより、どんな形であれ父と母に笑顔が戻っていたのが、わたしは嬉しかったのです。
元婚約者に父が「裕子は、反抗期が酷くて本気で殺そうと思ったことがある」って、酔っぱらって言ったのは本心だと思います。笑
なんにせよ、わたしは自分の怒りを抑えられず、
めいいっぱいの抵抗と、本当にここでは書ききれないほどの抵抗をし、沢山の人に迷惑をおかけしましたが、
今となっては笑っちゃう良い思い出で、自分に正直に生きる土台となっています。
【人生の闇】
地元の女子高校を卒業した私は、ホテルウーマンになりたくて地元の専門学校に入学。
ですが8ヶ月で中退。
というか、学校側から辞めて下さいと言われました。
女子校時代にお付き合いをしていた彼と別れ、
当時、新しくお付き合いしてた男性と別れ話がこじれて、周りの人をたくさん傷つけて迷惑をかけました。
その彼は資産家の家のニートで1つ歳上でした。
とても優しくて面白く魅力的な人でしたが、異常な独占欲と束縛で少しずつ窮屈になってきました。
とにかく毎日ずっと一緒にいないと不安になる人で、
私は私で専門学校で新しい友達も増えて楽しく友達との時間も欲しかったので度々ケンカに…。
彼の束縛は次第にエスカレートしていき、
授業中に乱入してきて単に勉強の事で教えて貰ってた友人をビール瓶で殴って大怪我をさせたりと
学校にも頻繁に乱入するようになり先生が警察を呼ぶことも増えてきました。
学校だけで3人も怪我人を出してしまい、
私は「別れるまで1人で過ごす」と言い、教室の同じ空間にいても友達と離れてメールで会話する日々。
そして何度も何度も話し合いをしました。
でも別れるなら一緒に死ぬと山に連れていかれたり彼は怖いもの無し。母はノイローゼに。
自宅にも屋根をよじ登って入ってきたり、何度となく警察に来て貰っても解決策が見つかりませんでした。
そんな中、山口県の周防大島という離島にあるリゾートホテルで約2週間の夏期研修に行く事になりチャンスだと思い、
黙って姿を消したら状況も変わるだろうとウキウキして行きました。
しかし、どうやって知ったのか大島まで登場して、また怪我人を出してしまいホテルの方々にも迷惑をかけてしまう始末。
他にも助けようとしてくれた中学の先輩や元彼も、
私の目の前で血だらけになったりと数々の出来事が重なり私の精神状態も限界に。。
会うとダメな事が分かったので電話やメールで一方的に別れを切り出し完全に無視しました。
その結果、車で通学してた私は凄いクラクションの音にルームミラーを見たら彼の車が後ろに見えてカーチェイスに…。
と同時に携帯が鳴って出たら『別れんでくれっちゃ』『話を聞いてくれっち言いよーやろーもん!!』って言う彼。
私は『絶対に無理っちゃ!もう二度と私の前に姿を現わさんどって!!』って言ったら、
『車を停めろ』って怒鳴られ、私は携帯を切って逃げようと思い運転してたら走行してた国道の信号が赤に。
彼の車は私の真後ろで凄い勢いで衝突…。私は救急車で運ばれ入院しました。
入院中も朝から晩まで病院に来て夜の面会時間を過ぎても、こっそり入ってきて割愛しますが、色々ありすぎて私は諦めの境地に。
『もう分かったよ』と言うと凄く優しくなり退院して暫く車椅子だった私の身の回りの世話をしてくれたけど、
何か違うと思ってました。
結局、親や学校、警察から完全に姿を消すしか方法はないと言われ、
友達にも誰にも連絡しないという約束の元、学校を辞めて親戚の家にお世話になりました。
一歩も外に出ることを禁じられ、携帯には毎日200件以上のメールや留守電。
後に知ったのですが私が姿を消し地元では自宅や友人、知り合い等ありとあらゆる所で暴れてたそうです。
そして、彼は亡くなりました。
彼が亡くなったのは、随分と時が過ぎてから知るのですが。
約1ヶ月半、親戚宅でお世話になった後、地元には戻らず一人暮らしをはじめ、カフェでバイトをしました。
おばさんと頻繁に会いに来てくれてた親以外の人と接する事がない日々を過ごしていたので、単純に人と触れ合うことが嬉しかった。
でも2ヶ月目くらいから常連のお客さんにしつこくされるようになり、
一人暮らしの家にもつけてこられるようになってカフェを辞め、
今度はガソリンスタンドでバイトをしました。
元々お掃除が好きだったこともあり洗車が得意で、ピカピカにした車に喜んで下さるお客さんの顔を見るのが楽しくて仕方なかった。
ですが暫くして店長が移動になり新しい店長がきて、
その店長が段々とストーカーみたいになり異常な行動がエスカレートし気持ち悪くなって、また辞めてニートに。
その頃、親友とだけは連絡を取るようになっていて、親友が遥々、会いに来てくれました。
バイトをしてた期間も自宅とバイト先以外は出ないように言われ、私は何処にも出かけない日々を過ごしていたのもあり、
久々に親友と会えた嬉しさからドライブに行こ~!と、当てもなく九州は南の方から山口県まで車を走らせました。
自由に飛べる鳥になったみたいで綺麗な景色を見たり2人で語ったり、カラオケしたり本当に嬉しかった!
ただ丸3日間、寝ていなかった私は居眠り運転をし正面衝突の大きな事故を起こしてしまいました。車は、ぐちゃぐちゃ。
警察や救急隊員の方に、これだけの事故で命があったのは奇跡だと言われ、
救急車で運ばれ沢山の検査をしても何ともなくて両膝を縫っただけですみました。
レッカー移動に立ち合った両親は、ぐちゃぐちゃな車を見て号泣していたそうです。。
私は散々、両親を泣かせ心配や迷惑をかけてきて、もう絶対に心配をかけない!って誓ったのでした。
ちなみに、モテる自慢とか被害者意識とかは全くなくて、色々な出来事は私に責任があったのだと気付きました。
その責任というのは、まさに私の思い込み(ビリーフ)と、
このどん底や絶望を受け入れられずに、ひたすら自分を裁いていたり自分を責めていたので、
そうしているうちは、どれだけ必死にもがいても、更に更に深い闇へと落ちていったのでした。
その事に心から気付くまで、東京に来てからも似たようなことが続きましたが、
見事に起きなくなりました。
私が成長するためのギフトでした。
心からそう思えた時、はじめて亡くなった彼への罪悪感は見事に消え、
有難うの気持ちで一杯になり、本当の意味で闇から抜け、解放されたのでした。
両親から過去の事は封印しなさいと言われ、私自身も確かに、いちいち言う事でもないし、
何より生きていると皆さん、それぞれ色々なことがありますし、このような話よりも楽しい話をしていた方が建設的だと思い、
ずっと触れずに生きてきました。
私にとって「闇」の時代でしたが、人生は必ず良い方に向かっていることを強く信じている土台となっています。
(私だけではなく、あなたも)
ですから、もしも今、あなたが辛くて辛くて、苦しくて苦しくて、なんでこんなことが起きるんだろう?と、
人生の全てがダメになってしまったような…
自分だけが世界に見放されてしまったような…
真っ暗闇にいて、どこにも希望がないような…
そんな悲しみや苦しさを、抱えている状態だとしたら、
今あなたは、着実に「必ず良い方向」へ、近づいていることを信じてみてください。
今のあなたには全然そう思えないとしても、心の片隅にでも入れてみてください。
夜明け前が、1番暗いのです。
この経験だけではなく、他にも私自身が数々の経験したことから断言できるのは、
「絶対に光がやってくる。そしてトンネルには必ず出口があることを知っている」と言うことです。
必ずまた心から笑える日が来ます。
必ず生きていて良かったと思える日が来ます。