【有害なスピリチュアル】
最近、新たなご縁をいただき有難いことに気づきの深さが増し、より明瞭に真実が観えるようになってきました。
それは、日常生活を送りながら
妥協なく 深く深く 真理の道を
突き抜けていかれている方とのご縁の
影響も大いにあります
(これもその方が仰るには、ゆうこりんの内側の一部に現れているのですよ、とのこと。)
それで心底しっくりきたことがあるのでシェアします。
私は昔から「不純物を落とすこと」の大切さをよく話したり書いたりしているのですが、西洋をはじめ、世界中でも日本でも真理のメッセージが自我の都合に合わせて捻じ曲げられて伝えられていることとして、
「私はいないのだから行をすること自体が囚われである」というメッセージを真に受け、誤解する人が今も昔も多いそうです。
(昔も今もビジネス的なマーケティングの上手い覚者もどきが沢山いて、真実に触れることが難しくなっているそうw
もちろん、それを見極める力や、それを真に受けるのは、私たちの霊的な洞察力や段階で変わってくるのですが。。)
例えば、「個人は幻想なので何もしなくてよい。問題なんて最初からなく、あなたはすでに悟っているんです。」etc…の教えは、有害でさえあるとも言えるそうです。
確かに個人は幻想だけど、そこには慈悲がないよね。(と私は感じる)
悟りがどうのこうのいう見てくれより、そのための(真の自己を思い出すための)気づきを深める方法や実践法や地図を示されたり、慈悲の心を大切にする(慈悲の心が開いている)ピュアな師に私は真の美しさを感じます。
……
そういえば、地震で息子さんを亡くされた方にあてた手紙で、「災難に遭う時節には災難に遭うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候」と書かれた自称覚者がいるという話を以前に聞いたことがありますが、最愛の息子さんを亡くされた方に、上っ面の言葉を綴れるのは、慈悲心から出る言葉じゃないし、それを言っていいのは自分に対してだけだと思う。
(あと、これは以前にも何度か書いたことがありますが、こういうときに、やたら「浄化」っていうのも)
……
話は戻って、前回の記事にも書いたけど、悟りとは「それ そのものに成る」ということであり、それは自己の霊魂の進化により、より真の自己と一致&階梯していくこと。
(神の波長と完全に一致すること)
本当に無明からの解放を望むのなら、その過程において「何もしない」というのは、単なる自我の罠にハマっているだけなので、そのための正しい実践や行を行う(=自我の性質を理解して心のマスターとなり、不純物を落とし、内観や気づきの力を実践や行などで日々微細に深め、強め、広げていく)ことにより無明から解放されることはできても、それをせずして自然と無明から解放されることも、悟りがやってくることも、あり得ないです。
もちろん 行や実践自体、自ら自発的にやりたくてやらせていただくものであり、無理に苦しんでやるものでもなければ、その結果すら捨てて行わないと全て自我の餌になるから要注意ではあります。
真理を「知っている」のと「体現する」のとは、天と地の差がありますよね。
ということで、
yogaの呼吸法の行(例えば、バストリカー・プラーナヤーマ(強力な浄化作用・火の呼吸)もオススメです♡
ただ、これも正しいやり方をしないと危険なので、またシェアします♀️
そういえばyogaで思い出したけど、yogaの太陽礼拝(スーリヤナマスカーラ)のスーリアは=太陽神を礼拝するということであり、
この太陽神とは=光=意識の光
私たちの内にある意識そのものです
(本当に私たちの内に常にある、全てを見通している純粋で神聖なもの)
太陽(意識の光)は、たとえ(想念の)雲に覆われていても、常に光はさしていますよね☀️
それを大切なものとして礼拝することによって、私たちの内に常にあることを忘れないように&そこに一致していこうとする行♀️
その光(=意識)は神そのものではないけれど、その一つの現れとして光(意識)があるということ。
これはイエスも言っている
「神“の”栄光」のこと。
(=お釈迦様の言われた仏性)
つまり、神「の」栄光 なので、更にそれ以前にあるもの(もしくは、それを超えたもの)が神と呼ばれていたり、涅槃や天の国(神の国)とか呼ばれていることだという深い気づきが起きました
合掌
兎にも角にも
太陽礼拝や信仰は、
(表面的に頭で解釈するのではなく)
私たちの内にある光のことです
これを忘れずに慈悲の心を育て、真摯に一致していこうと思う今日この頃でした。
写真は先日の
少し暑そうだったバテ顔まりん
(暑かったね ごめんねってすぐに帰ったら、ノリノリで⚽️始まった)
↓この写真は
またアザラシちゃんみたい
今日も来てくれてありがとう^ ^♡