【真の自己実現とは自己を成すこと】
この前、仕事の打ち合わせでお会いしていた取引先の社長さんが、少し前に私のブログ記事(チベットの僧侶の方の話)を読んで下さり、老子の教えみたいだねと言われて👂
https://ameblo.jp/rinrin1124/entry-12681246072.html
老子の教え↓
「その身を後にして而も身は先んじ、その身を外にして而も身は存す」
(↓写真参照🤳これはネットの老子の言葉からお借りしました)についても話していました。
……
で、チベットの僧侶の方みたいなお話を聞くと、若い頃の私は、
“個の私”が、「私もそんな人に“なろう!”」とかって思ったのですが、これは無知だったなあ〜と、いま思う。笑
なぜなら、
それは無為自然だから。
(天地のように在るから)
そして、
それが真我にとどまる(道)だから。
真我にとどまる人は、
「私が(自我・個我の)」我が身を後にしようとして やっているわけじゃないから。
(ただ傍から見たらそのように見えるだけで、自然と成されているから。)
つまり、「私(自我・個我)という
個の自分に囚われていないんです。
元々それは「私」ではなく、単なる思考や想念の塊なだけで、私たちの多くはそう潜在意識や無意識のかなり深いところで信じ込んで囚われているだけなんですよね。
それを捨て去り、解消している人は
自然に成されているんです。
だから私の若い頃のように、
「よし “私(自我)”もそうする!」って言って どんなに頑張ってもまず無理w
(実際、観るべきところを観ていなかったので疲弊しましたし、無理でした🤣)
それはバリバリ「私(自我)」ですし、
繰り返しになりますが、「我が身を後に“しようとして”」してるのではなく、「我が身を後にしなくちゃ!」とかもないからです。
逆に言うと、
自分自身を先にするときも
自然にそう成されている。
なので、老子の説かれた
「その私無なるをもって」というのは、
ここでは自我であり、
「故に能く私を成す」というのは、
真我であり、
「私を成す」というのは、
真の自己を成す、実現する、
それと一つになる、ということ。
無為自然だから
(天地のような在り方だから)
真の自己が実現されるということで、
これは言い換えると、
個々の存在は、「自分」として分けられた(与えられた)生命・魂を救済する使命が霊的にはある、とも言えます。
あ、今日の話は、
真の探求者向けに書いています☺️
yogaの聖典や、バカヴァッド・ギーターをはじめ、仏陀やイエス、ラマナマハルシや、それこそ老子等が説かれた真理は、ただ知ってるだけや、瞑想してみただけや、ちょっとやってみただけだと意識そのもの(観照者)になりすました自我に取り込まれてしまって、真理が単なる戯言や空論になってしまいます。。
そして、他や世界を見ていたり、今ここに存在しているっていう意識があるのなら、それは分離している(深いところでそう信じ込んでいたり、分離の想念がある)、ということの確固たる証拠。
(これは自我の罠にハマって何もしなかったり、半端な霊的段階の満足に安住するのではなく、自我を直視し続けながら真摯に深めている人なら、必ずその巧妙さやどうしようもなさが、よくわかると思います)
ですから、
★ジュニャーナ・ヨーガ(真知)
★バクティ・ヨーガ(信・明け渡し)
★カルマ・ヨーガ
(結果を放棄する行や全ての日常の行為)
↑の3つのバランスをとりながら
深めていく日々の実践は、ある意味
「最高の魂的な武器」となります。
あ、3つじゃなくて、
大切なことがもう1つあった!!
それは「ユーモア(笑い)」です😄
これ大事🗽笑♡
ということで、
門司港はバナナの叩き売り🍌
発祥の地ですよ〜😁
(私も日常的によく🍌いただいています🙏😊)
あと焼きカレーも🍛美味しかった!
今日も来てくれてありがとう🙏^ ^♡