【想定外にも“存在論”。順序は必ず“Be→Do”】
よく、
「◯◯になれる方法」
↑とかって題名があるけれど、
(わたしも言葉として、“◯◯な方法”
とかって使うこともありますが)
★「こうすれば苦しみから逃れられる」
★「こうすれば幸せになれる」
↑etc…の「方法論」を説いているんじゃないんですよね。
これらは「存在論」を説いていて、
人は、苦悩が現れたとき、
つい、「どうすればこの現状から逃れられるか?」っていう「方法」を考えがち。
わたしも昔は、まさにそうでした。
「自分がどうあればその苦悩が解消できるのか?」っていう、自分の「在り方」は考えない(つまり、向き合わない)で、
その苦悩から逃れられる状況や場所を探したりすることに必死で努力してたなあ🙄
だけど、
「苦悩」っていうものの根っこの本質は、
その状況を、「どう捉えているか?」
↑っていうのが本質であるからして、
「方法論」では解決できないの。
大切なので繰り返しになるけど、
「自分がどうあれば」苦悩を解消できるか、なんです。
これはマニュアル化の影響も
大きいように思うのです。
★「こういう時はこうしましょう!」
↑っていう方法論によって、
人はどんどん「どうあるか?」ってことを忘れていっちゃう。。
で、想定外の問題にぶつかった時、
どう対処したらいいか自分で判断することが出来なくなってしまう。。
そして、それが更に、
★「①の問題にぶつかった時は、◯◯の対処をする」
★「②の問題にぶつかった時は、△△の対処をする」
★「③Cの問題にぶつかった時は、××の対処をする」
↑etc…っていう「答え」ばっかをアタマに詰め込むことに。。
でも、わたしたちに現れるのは、
生きてる限り、その多くは、
「想定外のこと」。
ここで、
「在り方」に気付いた人は、
常に、「自分がどうあるか?」が定まってるから、物事の判断を自分で行えるし、想定外の問題にぶつかっても柔軟に対応できます。
もしも一時的にブレそうになったり、戸惑っても、その度に「自分がどうあるか」を自分に自問して再度定めたら、先日の記事にも書いたように、
「どうあるか」が定まっていたら、
「どうするか」は自ずと見えてくる。
(順序は必ず「Be→Do」で、
「Do→Be」ではないとです)
これは、
やはり常に「客観視」することで、
この意味がハッキリわかると思いますし、
体感的にも腹落ちします(╹◡╹)
今日も来てくれて有難う🙏^ ^♡