
こんにちは。
本田裕子です。
今日のお題は、【理解できない関係】です。
昨日✈東京に戻ってきた私は、本当とんぼ返りの帰省で、
今回は、「忙しいだろうし無理しなくていいよ」と、言われたのだけど、無事7回忌も終え、お墓参りもできたし両親や親戚にも会えて帰って良かったです。
そして、
人間って本当に「理解しあえない」生き物なんじゃないか、とつくづく思いました。笑
これは悪い意味ではなく、親戚の叔父・叔母(夫婦)に久しぶりに会って、個別に話を聞いてても思ったし、両親にしても同じだし、更にいうと私自身もそう感じたから。笑
で、
わたしたちが、お互いを理解しあい、尊重しあうことが出来るときってのは、
自分自身と繋がったとき、なんだよね。
そう、
自分の中にある裁きの基準がなくなって、色々な自分が統合されたとき。
だから、私は常に
「ちゃんと目の前の人を理解しよう!」とは思わないし、それを自分に強制しない。
あ、昔はそうしなくちゃいけないと思っていたけど、やめました。
だって、それは全然気持ちよくないし。
そもそも「自分」との繋がりを放置したまま他人と繋がろう、なんて無理。
他人と理解しあえないときほど自分を無視してるときはないから、ね。
今回の帰省は、一段とそれを強く感じました。
(正確にいうと以前の自分の感覚と、今の自分の感覚の違いに気づいた状態で、帰省中は短い時間だったけど、あたたかい時間でした)
昔はね、
辛そうに話されると、
「私が何とかしなくちゃいけない!」って思ってたけど、それもやめました。
大切なのは、
「わたしたちは、理解しあえない者同士として生きている」
↑ということ。
これを忘れると、
「なんで理解できないの?」っていうのが問題視されてしまうの。
理解できない夫婦でいいんです。
理解できない子供でいい。
(理解できない子供でも親不孝じゃないんだよ)
もちろん、
理解できない親でいていいんです。
子供のことが理解できなくても、親なんですから。
私のコーチングやセッションでも人間関係の内容は、とっても多い。
でね、
もし今、あなたが理解できないと思っている人がいて、その理解できないことによって苦しんでるって勘違いし、なんとか理解しようと思っているのだとしたら・・
諦めてみてください。
理解できないことを諦めるっていうのは、相手との関係性を諦めることではないのだよ。
同じく、相手に理解されなければ成り立たない関係もないんだ。
わたしたちは理解しあえなくても、その奥に、
「理解したい」
「大切にしたい」
「繋がりたい」
↑という、あたたかい想いがあることに気付けば、
実際には、どのくらい理解できたのか?なんてのは、本当どうでもいいんだ。
私は人体実験を含め、色々と学んできたおかげで、だいぶ理解ができるようになったと思っていたのだけど、
よくよく考えたら、
理解できたんじゃなく、
「自分の中での折り合いがついた」だけだったり、
自分と繋がった分、相手と繋がり、
「相手を理解しなくちゃ!」が、自然となくなっていただけであって、
本当は全然、理解できていなかったし、理解できていない。
でも、それでいい。
理解なんてできない自分でもいい。
すべてをわかるなんてのが無理な話。
(わたしたちは、すべてをわかりあえないほど魅力的な個性の集まりなんだから♡)
だから、
わかってあげられなくてもいいし、
わかってもらえなくても、いい。
「繋がりたい」っていう気持ちこそが大切。
「繋がりたい」っていう気持ちだけでいい。
又、どんな人間関係も固執したところで無意味。
本当に縁がある人は縁があるし、縁のない人は縁がないし、どちらにしても理解し合う必要はない。
だから、大切だと思える人との関係が切れたところで、ジタバタする必要なんかないし凹む必要もないんだよ。
だって縁がなかっただけなんだもん。
心の声に素直に従うだけでいい。
そんなことを思った帰省なのでした。
実家の愛犬は、読書しててもマッサージしててもベッタリで可愛いすぎ♡
(寝るときまでベッタリで、踏みそうで気になり幸せな寝不足で昨夜はバタンキュー💤笑)
あと今さらだけど、姪っ子からSNOWのアプリを使った写メを。
(これは整形レベルの変身だわ。笑)
目の大きさが半端なくて別人w
今回も親戚一同、集まって言われたのが、
「裕子ちゃんは、笑うと目がなくなって三日月になるのが相変わらずチャームポイントね」と。
幼い頃は、「三日月ちゃん」って言われるのが嫌だったけど、思春期ぐらいから何故か好きになったのよね。笑
好き嫌いも気持ちも変わるものは変わるよね(*^^*)
本日もお読みくださり、ありがとうございました。