【透き通って在る♡清寥寥白的的(せいりょうりょうはくてきてき)】
私たちは、自分が自分であることの
喜びを取り戻すことが大事。
(なぜならそこに本当の喜びと平安があるから♡)
そして、自分のものではない人生のお荷物をすべて降ろすために私が徹底的にしたこと(今もしています)の一部を今日はシェアしたいと思います。
まず、自分の中心に鎮座し、
あるがままの“いま”に
思考で判断する癖や 過去の記憶も
瞬間、瞬間、棄て去ります。
(前にも書いたけど私は職業柄なのか、気質もあるのか、心の仕組みや真理を長年探究している中で、知れば知るほど&実践すればするほど魂の叫びみたいなものから〜これも本気で徹底しています。魂の叫びについては長くなるなら、また書きます。あ、そういえば今日もある禅の先生から「ほんと本田さんは修行僧みたいですね」と言われました。なんていうか、根源への愛が溢れてとまらないんです♡)
あ、話を戻します。
これをひたすら実践し続けると、
判断する前の状態や隙間が見えてきて👁
空っぽ(空の状態)になります。
そして
そこに自分はいません。
=「いま」そのものとして存在し始め、心が静まって判断が消えてくると、
毎瞬が新しい瞬間になるんです。
すると、
ただ音が鳴り、
音が音を聞くんです。
そこに「あ、鳥だ」とか「あ、ワンちゃんだ」いう判断もなく、「何か鳴き声が聞こえたぞ」という判断も加わる前だから、音と音を聞く人っていう主体と客体もありません。
これは、私がいつも話したり書いたりしている“観照”すら消え、主体と客体が溶け合って何にもなく、いろんな音やその他諸々の気づく“対象”も消えるんです。
すると今度は、
気づきに気づくようになって、
「在る」っていう自覚に気づくんです。
(言葉にするのが難しくて、なんかややこしいけど😅伝わるかな?)
聞いた話によると、
そこに気づくには、
強烈な気づきが必要なのだそうです。
私は長年、ヴィパッサナーを常にやっていたり、今年に入ってからは徹底して気づきの力を鍛えているところですが、
元々わたし達は、誰もが初めから強烈な気づきを持っているらしいのですが、外側にばっか意識が向いていて、内側に意識が向いていないだけで、内側に向ける事ができれば強烈な気づきが表れるそうです。
で、本気ならやり続けるけれど
自我(思考)の世界の自分が目覚めたいとかだと、まずやらないらしいです。
確かに〜
思考の世界にいるということは、
=判断とか過去の記憶を棄て去られると、空っぽになっちゃうから困るわな。
だから思考の自分が納得する理由をつけて「何もしなくていい」と思考まみれでいいと解釈する。
私が思考と同一化してたとき、何でもはやく納得したかったもんだから、理解のための知識を探して頭の中だけでの完結をしてたもん。
もっというと、
思考の世界の個人の「私」が
目覚めたいとか、悟りたいって場合、
判断や自我の思考を棄て去るのは
自我の消滅になるから、
100%やらないことを選択するのは
当然といえば当然よね。
本気の人との違いは
「やるか、やらないかだけ」と聞いたけど、私は個人的に冒頭に書いた“魂の叫び”や、根源の愛に気づくと、やりたくて仕方なくなるんじゃないかと思う。
実際、特に魂の叫びは強烈な自分への愛でもあるから、本気になる方が多い。(もちろん、これは本人の自由だし強制する気も全くないけれど、理由も条件もなく喜びや平安に包まれるから、またシェアします♡)
又、これは何も瞑想や禅が必ずしも必要なわけではなく、普段の日常で自分じゃないものを自分だと思い込んでたら、本質との分離を強めてかなり難しいので、「私」という壁を薄くするといいです。
(これもシェアしていきます♪)
頭の中の小さな狭苦しい世界を出て
本質の自分に寛いで心が安らぐと、
いまここに生かされてあることの
喜びをしみじみと感じます🙏✨
おはようございます😃
↑昨日の(╹◡╹)✨
清寥寥白的的(せいりょうりょうはくてきてき)🌸
素敵な一日を✨
今日も来てくれてありがとう🙏^ ^♡