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禅の善行と 感知力・感性♡

禅の善行と 感知力・感性♡

【禅の善行と 感知力・感性

遠回りに感じる道が

実は最も近道であることが多いなって

最近つくづく感じる😌

そして、話は変わって、

聖典や聖者、マスターたちがよく言われている

・神を全身全霊で愛しなさい。

・完全に帰依しなさい。

・私は誰か?(あなたは自我ではない)

・真の自己に意識を繋ぎなさい。

(=「真の自己」という概念さえも超えているものに意識を繋ぎなさい)

↑etc…と伝えてくれている(説かれている)のは、たわいごとや作り話ではなく、本当にすべての人の苦や無明の根本から抜け出されるための導きであり、福音♪

あれほどまでに

その時代、その時代の人に迫害されたり

こいつ何言ってんだ⁈

頭おかしいんじゃない?

馬鹿なんじゃないか?

と理解されなかったりしても

ずーっと ずーっとそれを

ある意味、頑固に伝えてくれているのは、そこなんですよね。

上部だけの気休めとかじゃなくて、本当に根っこのところから抜けていくために、真の平安のところに導くために、あそこまで伝えてくれている、そこまでして伝えてくれているのに感動する🥺🙏✨

……

そんでもって、

聖典やマスターたちは、自我を否定しようとしているのではなくて、想念を中心にチューニングしようとしているだけ。

なんだけど、

自我はそれを否定されたように捉えがち。

まさに私もそうだったな。

私が表層のところに常に意識をおいていたとき(=思考と同一化していたとき=無意識に生きていたとき)は、自分自身が既に気づいている顕在の意識することのできている中で捉えていたから。

けれど、もっと精神の深いところを観ている人にとっては、その言葉の重みや深さが分かるんですよね。

ただ、これもより正確に表現すると、

「分かる」とか「理解する」というのでもなく、完全に理解できるものではないと思うんです。

なので、「分かる」とか「理解する」というより、「受け取ることができるようになる」、「感知できるようになる」、「呼応するようになる」という感じ💞

「これはこうだから〜こうやな🤔」っていう、日常的な意味での理解とは明らかに違うもの。

そもそも日常的な意味での「理解する」というのも、実際には本当に分かっているものはなく、ものすごく表面的なのが一般的になりすぎているから。。

(もちろん、そこまで追求したら話にならなくなるからある程度でそう言われるのが常識になっているのだと思いますし、これはコミュニケーションを円滑にする方法でもありますよね😌

そして、

真理は理屈を積み上げて

分かるものではなく、

私たちの誰もがもともと持っている

何かを受け取ったり、感知する働きが

本来、魂の深いところにあるんです。

だけど、たくさん覆いや錆や埃があったり、そこにあまり意識を向けていない、ということがずっと続いている状態だと、表層の部分や表面でしか見れない、感じれなくなってしまう。

なので、覆いや錆びついているものや埃を落とすことや、精神の深いところを観ていくことで、本来持っている勘みたいな感性が、元の状態に戻ってきます💫

(とはいえ元の状態を忘れきっている状態なので、そういう感性が身に付いてくる、という表現もできますよね😉

実際にはもともと持っているものが、

表面に出てくるだけなんだけど、

このような(不純物を落とす)ことや、

気づきの力を育て、取り戻すことや、

真の自己に意識を繋ぐことが

禅とかで言われている

「善行」だと私は受け取りました。

この善行も、霊魂的な意味なので、

一般的に言われている善い行いと

すべては一致しないとは思うけど、

綺麗にお掃除することの恩恵(感知力、洞察力、神や源に呼応する、勘が冴える、人を深く感じれる、本質が見えてくるetc…)は、大きいですから、日々コツコツ綺麗にしたいですね✨😊

今日も来てくれてありがとう🙏^ ^♡

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