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愛より○○を尊ぶブッタの教え

愛より○○を尊ぶブッタの教え

【愛より○○を尊ぶブッタの教え】

先週の金曜日に Podcastを配信いたしました。

Podcast番組】

https://goo.gl/2gBdev

今回の放送は、『愛より○○を尊ぶブッタの教え』というテーマでお送りしています。(第283回)

ブッダの「慈悲の瞑想」は、○○への出発点に導くもの。

なぜ「○○」には魔が入りやすいのか?

なぜブッタは、「慈愛」と呼ばずに、「慈悲」というのか?

通常、私たち人間(や個我)の言う「愛してる」という言葉は、ほぼ見返りを求めていたり(無意識の深いところで)、極端な場合、憎しみに変わることもある。

例えば、色んなことが順調でバラ色のときは愛しているけれど、様々なことがうまくいかなくなると憎んだり。。(=見返りを求める動機があるから)

だけど、慈しみにはそのような動機がないので、たとえ状況が好ましくない方向に変わったとしても、慈しみが憎しみに変わることはない。

なぜなら慈しみというのは、私たちは同じひとつの命に生かされている同じ存在である、という理解から生まれた言葉だから。

そして、慈悲の心を育てれば育てるほど私が幸せを望むのと同じように、もう一人の私(相手)も幸せを望んでいるのだから全ての存在が幸せであることを心から願い、祈れるようになってくる。(補足)

etc…是非お聴きください(╹◡╹)♪

……

ということで、どんなに道徳心を持って厳しい戒律を守っていても、困っている人を助けるという行動をしていても、慈悲の心が育っていないと あんま意味がなく、後で疲れたり嫌になる可能性があります。

(私は昔ありました😅

で、ここでまた根本的な話になりますが、

私たちは実際にはひとつにつながっているのに自分は全体から切り離されて分離して存在していると信じてる自我の大きさや、勘違いの度合い=その人の苦しみ(孤独感・劣等感・不信感etc)は比例する。

……

最後に、私が最近 つくづく感じるのは、

煩悩や自我のシステムの影響を受けるのが私たち人間であり、もし自分に煩悩がなかったら、どうやって人の煩悩を理解するというのだろうか?🤔ということ。

煩悩こそが菩提の素であり、まさに「煩悩即菩提」って、そのことを言っているんじゃないかしら。

煩悩や自我は、自我を超えるための大切な原材料であり、それは悟りの道(菩提)に直通しているのだということ。

私自身は道半ばではありますが、その途上にあることに感謝しかないですし、その途上に(いま)ある幸せを感じながら、ますます深い根源の御心の中に入っていくためにも様々な実践(行)をはじめ、一瞬一瞬を大切に又、祈り一念、力まず気ばらず 楽しんで鍛錬したいと切に思う😌

今日も来てくれてありがとう🙏^ ^♡

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