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自我が消えるとき

自我が消えるとき

真に誰かや何かを愛おしく思うと、

自我は消えてしまう。

そこに「私は」「俺は」っていう

虚構や我執(=自我・アハンカーラ)は

消えている。

ただピュアな愛おしさだけがある。

なぜなら、

愛こそがリアルな存在=実在だから

それは、の肉体が無くなっても、

生き続ける☀️

……

で、往々にして普段の私たちが知っている愛というのは、例えば所有欲だったり孤独から逃れて安心するための手段だったり、

愛という名のもとの独占欲や執着、嫉妬etc…だったりします。

だけど、これは愛じゃなくて、自我の作用でしかありません。

(良いとか悪いとか 言いたいんじゃなくて単なる作用だよ)

……

少し前の記事【破天荒であれ❤︎】に、

どんだけ雲や霧がかかっていても

はたまた煙や塵にさえぎられていても

空の上には

いつも太陽が輝いていますよね☀️

(=私たちの源にも)

と書きました。

そして、「いまここ」は、とてつもない愛に包まれている状態でもあります。

(もしそのような状態でなければ、

「いまここ」に在ることはできません)

「いま」を生きられないのは、自我の欠乏感(=愛の欠乏感)を満たすために、そこに未来や過去という観念が入り込んで同化するから。

じゃあ、どうしたらいいの?

そうです。私たちの本質は、あっちこっち飛ぶ頭の声=思考(=自我)ではなく、愛(=実在)です。

実在はいつも いまここにしかいません。

(「いまここ」を別の言葉で言い換えると、生命であり、源であり、完全に開かれた愛と理智(ブッティ)です)

「こうなったら幸せになる」っていう思考のストーリーの中で条件付きの窮屈は幸せを追いかけ続けるのか、ストーリーから抜け出して広大な実在(愛)を生きるのか、答えは自分の中にありますよね(╹◡╹

……

とここまで書いて、空海(弘法大師)のお言葉を思い出した(もっと分かりやすいお話だった記憶があった)ので、調べたから最後に引用します😊

『日月星辰(にちがつしょうしん)は、

本(もと)より虚空に住すれども、

雲霧蔽虧(うんむへいき)し、

烟塵映覆(えんじんえいふ)す。

愚者はこれを視て、日月無しと謂(おも)えり。

本有(ほんう)の三身も、またかくのごとし。

無始よりこのかた、本より心空に住すれども、覆うに妄想をもってし、纏うに煩悩をもってす。

事は篋鏡(きょうきょう)に均しく、

理は礦珠(こうしゅ)に同じ。

妄者はこれを視て、本覚無しと謂えり。』

(弘法大師空海百話から引用)

合掌🙏✨

……

最後の〆の写真は、本田親子と紅葉🍁

まりんの🐾可愛い(≧∀≦)❤︎

最後はやっぱ親バカでした😆

今日も素敵な一日をお過ごしください。

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