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○○に抱かれて生きる。

○○に抱かれて生きる。

○○に抱かれて生きる】

先日、映画「すばらしき世界」を観て来ました。

身体の芯から静かに

涙がどんどん溢れてくる

素晴らしい映画でした。

(個人的にここ数年で群を抜く作品)

ここで誤解を恐れずに言うと、

私はどのような犯罪であれ、

他人事に感じることができない。

どのような極道でも、心のどこかに人のために善い事をしようと思う神性や仏性を持っているかもだし、逆にどんなに善人に見える人でも心のどこかには醜悪なものを潜めているかもしれない。

日々、自分の中にどのような思考や感情が湧き上がっているのかを、真っ直ぐに観ていないと、又、自我や思考のシステムを真に理解していなければ、「あの人は悪い人だ!けしからん!」みたいに責めるだけになる。

もっというと、「私は正しい!」と言いながら誰かを妬み、身近な人を裁いていたりする。

(又、有名人の不倫や不祥事にまで関係ないのに、あたかも自分が正しいと裁いていたり

自我やエゴが舵を取っていると、

それは極と極の間の漂っているだけ。

そうであるなら、あの人は極悪人だと

どうして断言できるのでしょうか?

(自らの心にその種を抱えていながら)

「罪を犯したことがない者がいるなら、その者が石を投げなさい」と、イエスがヨハネの福音書で言った言葉を思い出した。

外側に目を向けているのは楽だし、

対象や他人任せで自分を観なくて済む。

人のことをとやかく言う前に、

正義を振りかざす前に、

自分の中にある種を直視して掃除をし、

自分の無知さを素直にただ認めないことには、その観念は落ちないし消えない。

(輪廻を作り続けるだけ)

観念が

落ちたところに

真の平安があります🌼

人に親切に、愛情深く接することが 「正しいことだから」行動に移すのなら、それは「正しい・正しくない」という思い込みから影響を受けた思考であり、自我が舵を握っています。その結果には必ず何らかの期待があり、自我は常に見返りを探していて、まったく平安ではありません。

そして、

お金は悪ではありません。

単なる道具でしかないのに、奴隷になって、さ迷うのは愚かなこと。

○○があるから幸せ」

これは条件つきです。

そして、○○がなければ不孝になる、という脆いものです。

不安を誤魔化すために

不安を消すために

外側に何かを求めても

二極の間をいったりきたり

善悪。優劣。

(これらは神の子である私たちの本来の姿ではない迷いの想念)

不安の正体を直視したら

二極を超えます。

愛に溶けます。

愛は何かを操作しようとしないのに全てが完璧に、いや想像を超える形で最善に変容されます

最後に自我やエゴが手に入れたいと思っているものは、もちろん手に入れることができます。(そこに矛盾した思いがなければ) 

自我やエゴの欲を満たすことは

決して悪いことではありません。

ただ、エゴの思いが満たされることが究極の幸せだと思っていると、エゴの幸せに集中してしまい、神(=真の自己)が持っている真の幸せ(愛)を見失ってしまいます。

愛に溶けたとき、求めていた幸せ以上の何かがあります。

最後に、日常に暮らしエゴを持っていても、同時に真実の自己に、神に気づいているといいですよね😌

私たちはは誰でも、

神を知る事ができます。

神から送られている波動を

感受できるだけの清らかさに

立ち返れるか、だけだと感じます。

声としてではない、

もっと直接的な呼び声。

すると気づきを

引き起こしてくれるでしょう。

その気づきは、

全身を打つような大きな気づきです。

私自身も日々、お掃除中です。

どんなものも素直にただ認め、

根源(神)にお返しすると、

神が喜んで光に変容してくれます。

そしてある時、

まりん神はこう言いました🐶😇

・ほんと全部出してくれんことには

はじまらんのじゃワン! 

・もう何回も行き詰まっとるのに、

まだ懲りんのか、このバカタレがワン!

・変なプライドとか自分のダメさ加減とかをワシに返せ言うとるんじゃワン!

・ずっと待っとったよ!よ〜返してくれたのう。ワシはほんまに嬉しいバイ!全て光に変容して返還するけ〜のワン!

全てが根底からひっくり返ります。

私たちの中に無限の愛が

神の大愛が広がり続けています。

私たちはもう神と共にある。

てか、ずっと共にある。

(不純物でそう感じれなかっただけ)

神の愛に抱かれ

神を我が内に生きよう

今日も来てくれてありがとう🙏^ ^♡

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