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覚悟とは本当に喜びに生きる覚悟

覚悟とは本当に喜びに生きる覚悟

【覚悟とは本当に喜びに生きる覚悟】

覚悟って苦しい経験をする覚悟ではなくて、本心(御心)の自分を生きる覚悟であり、本当に喜びに生きる覚悟であり、本気で生きることであり、感謝に生きること。

これは何も「感謝しましょう!」とかいう表面的なことではなくって、本気で生きると、感謝は「しよう」としなくても湧いてくるものだから。

先週末は真凛塾のコンサルもしていて、

覚悟できている人は瞳を見ればわかるし(表面的に見るとわからないかもしれないけど)、画面越しでも深く対話していると表面的ではない 微細なレベルで伝わるところや深いところから明確に見えるところが多々あります

先週末にセッションしていた方は、まさに自然と本心(御心)と一致されていて1年前とは別人というか(本来の姿に還られていて)、日々心のお掃除や本気で生きているのが明確にわかりました

(これは少し前に歯科医の先生が「予約の数日前に慌てて歯磨きをしたのか、日々しっかりケアしているのか見たらわかる」と仰っていたのに似ていると思う。真剣に取り組んでいる専門のプロから見たらわかることも多いですから)

ちなみに「覚悟」は一度できたら「はいOK!もう終わり」というものではなく、ステージが上がったところでまた覚悟が必要な場面は出てくるもの。

そして、真理を理解するのは、ある意味、人生というゲームを攻略する上で大切。

(真理と違うことをしても結局ただ遠回りした後にやることになるから)

自我の都合よく真理を現実逃避に使うのではなく(一生懸命やって、間違えたり失敗するのは全然いい)、真凛塾でもよく言っているのですが、真理は机の上でお勉強するものではなく、日々を日常をしっかりと地に足つけて本気で(深刻ではなく)生きることだから。

そして本気だからこそ出会える大変なこともあるけれど、それに比例して学ぶことはめちゃくちゃ大きいし、次第に大変なことすら楽しめる器になっていきますし、それは決して消えない財産になります

その過程で、以前と反応が自然と変わってきて、感謝「しよう」としなくても自然と感謝が湧いてきて「あれ?私、大丈夫?」と頭では戸惑うこともありますが(自我を基盤に生きてきたから)、今回お便りに書いてくださっている方ように、どんなことが起きても深いところで絶対的な安堵感がある上で、自然と愛ダダ漏れで皆んなため(自他のため、一体、全体のため)に動ける人になります。

なぜなら、

本心(御心・真我)は感謝そのものだから。

故に感謝で始まり、感謝に溶ける。

(これを頭でするとおかしくなります)

これは沢山の悩める人を見てきて感じることでもあり、厳しい言い方をすると苦しい現実を生きている人って、自分の見たくないものを頑なに拒絶している面があります。(私自身の経験も含め)

 

ただ、その人だけのせいとかそんな愛のない目で見るんじゃなくって(もちろん自分を救えるのは自分なのですが)、私たち皆んなの生き方が生んでるっていう「まず私が変わっていこう」という意識が持てるといいと思う。

 

私もいつもそう思って生きてる。

すると、

マイケルジャクソンの「HEAL THE WORLD」の歌詞の一節(「Make a little space, Make a better place小さくたっていいから良い場所にしていこう) にあるように、もっといい世界を創っていけると思うのです。

私は今週も来週も真凛塾のコンサルが入っていますが、改めて感じているのは、「すべて師」だということ。

今回のコンサルをはじめ、クライアントや日常で関わっているもの全ててあり、今回の母もそう。

クリちゃんはあのまま入院していたら、もう少しあと何日か分からないけど、もったかもしれないけれど、たくさん管をつけられて手の施しようがない状態のクリちゃんをずっと狭いところに入院させるより、クリちゃんの1番安心する自宅で面倒みたり、最後を看取りたい、という母の強い愛と覚悟、勇気、優しさに私は涙が出ましたし、母や父を尊敬しています。

(退院するとき、すでにクリちゃんは呼吸が浅く、もうインシュリンもご飯も、水分だけあげてくださいと言われたそうで退院した日の夕方に天国へと

もちろん、これが正解だと言いたいわけではなく、クリちゃんの意志が母に伝わっていると感じたこと、又、母が真剣にクリちゃんを愛し抜いた上の決断だからです。

そして今日、今真凛塾にご参加くださっている 別の方からメッセージをいただき、私たちは繋がっていると感じたのが、

14年前にマロンちゃんというマルチーズを飼ってらしたそうで、そのマロンちゃんとの別れに罪悪感を感じでいたそうですが、今回のクリちゃんの件をキッカケに長年の罪悪感が涙と一緒に溶けていく感覚だったのだそうです。

私も罪悪感の種が溶ける感覚がまさに同じでした。事象は違えど、日々内観して、お掃除をしてたり本気で生きていると溶けるんです。

昨日も母から電話があり、クリちゃんの病院の先生からお花が届いたそうで、お菓子を買って先生にこれまでの御礼を伝えに行ってくると言ってました。

また、私はまりんの肝臓ばかり意識を向けていたけれど、心臓もしっかり見ていこうと思いました。

普段おてんばまりんも本当に優しくて、

今回、ポロリと静かに涙した私に気づいて、そっと寄り添ってくれるんです。

そんなまりんを見ていると、ふと、まりんともいつかはお別れがくることを時々想像します。

いや、もしかすると敢えて想像している節すら感じるときもあります。

あくまでも私の場合ですが、

「別れなんて悲しいから考えない!」ではなく、「いつか来るそのときのために日々この子との時間を大切に過ごそう!」と思うのと同時に、やはり最後まで愛し抜いて、お見送りさせていただくことは幸せなことだと思うのです。

又、私たちは完璧ではありません。

どのような選択をしたとしても

ワンちゃんもそれを理解しています。

私は中学生の時に飼っていたマルチーズのマミちゃんのお尻を、夜中にけっこう強く叩いたことがあります。

はい。当時の私は反抗期 真っ只中で、

毎晩のように深夜に帰宅してました。

両親は下の奥の部屋で寝ていて、家の中は真っ暗。私の部屋は2階だったので、電気をつけたら親が起きてくると思い、真っ暗なまま忍び足で階段を上がろうと廊下を歩いていると、見えなくてマミちゃんのを踏んだりして「もう〜」ってなってるところにマミが喜んで私を迎えてくれているのに、まだ未熟だった私はイライラをマミにぶつけて、お尻をペーン!!と。。。

そしたらマミが「キャン」って鳴いたんです 私は我にかえって、「マミ、ごめんね、ごめんね」って謝ったのだけど、彼女は翌日もケロッとしていて変わらず喜んで私のところにきてくれるんです。

つまり、何が言いたいのかというと、ワンちゃんたちは飼い主さんをどんなときも愛しているんです。

なので、マロンちゃんはご実家で飼われたいたことや名付けられたのがご本人だったことetc…からもそんなに長年、罪悪感を持つ必要はなく、マロンちゃんも望んでいないんです

私もクリちゃんを看取ることは出来なかったですが、不思議とクリちゃんの存在をすぐ側で感じるんです

愛する存在が亡くなるのは悲しいですが、

敢えてその時のことを考えたり、人や動物が死ぬということを知っていると(魂は死なないけど)、当たり前の日々が当たり前ではなくなります。

 

そして、亡くなったワンちゃんたちの願いは、飼い主がまた笑顔になることです。

そこには

ステップが必要なときもあります。

(涙が出るなら、出るに任せるのです。そこを抑圧してしまうと、逆に時間がかかることもあります)

クリちゃんは天国で

今も笑顔なんだろうな☺️

皆さまありがとうございます

 

 

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